職質アンチパターン

無責任な事を書きたい

物事から感じ取った事を上手く自分の言葉に出来ない、更に言えば誰からの借り物でもない言葉で表現出来ない人間は、評論や批評にまつわる仕事で身を立てるべきでは無いと思っている。

 

主に音楽や芸術方面に於いてこれを強く感じる。なので、以下に書く事はそれらの分野の評論家や批評家やインタビュアーに対して思った事だ。

評論活動が趣味の範囲ならば全然文句はないし、現に僕もそういう事を無意識下でやっていると思う。だが、雑誌等の紙媒体やそこそこ影響力のあるWeb メディアになると話は別だ。そういう場所で評論や批評、批判、或いはインタビューを行っている人間はそれを「仕事」と明らかに認識している。間違っても「無意識下」で行ってなどいない。つまりは彼らはプロフェッショナルに他ならない。

プロフェッショナルの評論とは何か。

非プロフェッショナルが持ち合わせていない専門性の高い知識 (それも膨大な量の) から物事を分析して、仮説を立て、考察し、自分の (自分だけの) 見解として公開するのがプロの評論では無いのだろうか。非専門家である人間に対し、新たな智識と考え方を授け、その人たちの生活を豊かにするのがプロフェッショナルの評論家では無いのか。

インタビューという行為はこの評論のプロセスをそのままなぞっている。インタビュアーはインタビューの対象となる人間の「無意識下」での思考を引き出し、言語化させなくてはならない。つまり、インタビュアーはインタビュー対象の想像を超えなくてはならないのだ。ここで言う「対象の想像を超える作業」というのは上記に於ける「仮説を立てる・考察をする」という思考過程に他ならない。そして言語化させて、対象の思考を聞き出すという行為は、その仮説や考察が果たして妥当性に足るものかどうかを実証する段階であると言える。

本来、評論とはこうあるべきだと思うし、インタビューとはこうあるべきなのだとも思う。だが、(サブカルを自称するような) Web メディアを中心にして、あまりにお粗末な評論やインタビューが氾濫している(ただ、サブカルを自称する紙媒体も酷いものだと思うが)。誰でも出来るインタビュー (ここで言う「誰でも出来る」はインタビューの内容の話だ。誤解を恐れずに書くと「小学生でも出来る」となるだろうか) に用はないし、稚拙な評論文があるべき場所はチラシの裏こそ相応しい。

 

以下、僕の読んだクソのようなインタビュー記事の雰囲気

 

インタビュアー(以下、イ)「新譜聴きました。いやー、やっぱりこういう音楽は○○にしか出来ないですよね。素晴らしいです!」

対象(以下、対)「ありがとうございます」

イ「なんというか、60年代の古いロックミュージックというか……でも00年代のUK ロックのエッセンスも含まれてますよね」

対「そこら辺は意識しました」

イ「×× (バンドの名前) っぽいですよね。あと△△ (ソロシンガーの名前) とかの雰囲気も感じるというか」

対「良く言われます (笑) 」

 

以上、クソのようなインタビュー記事の雰囲気終わり。

 

冒頭で「○○にしか出来ない」と言ってるのに、出てくる言葉と言えば一般化された言葉で例える事ばかり。あまつさえ××や△△という具体的な名前まで出して例示するとは何を考えているのだろうか。そうやって一般的な言葉によって同定する行為をプロが行うのは本当に不毛だ。物事に対する感性があまりに貧困すぎる。

僕がこんな日記を感情の赴くままに書いているのは、このクソみたいなインタビュー記事が本当にクソ過ぎてイライラしてイライラを溜め込むと身体に良くないと思ったからだ。

 

ただ、紙媒体にもWeb メディアにも、素晴らしいインタビュー記事や評論を書く人間は (ありがたい事に) 未だに存在しているし、僕はその人達を心の底から尊敬している。こういう人達がもっと幸せになる仕組みが出来れば良いのに、と思う。そうすれば、自然とゴミのような記事が減ると僕は信じている。